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【達人に聴く】JCUE with 村田 幸雄

『私たちJCUEは、ダイビングの安全や環境教育に取り組み、NPOとしての活動が15年を超えました。
そこでダイビング業界に輝かしい功績を残し、現在もまだまだたくさんのチャレンジをされている先輩方のお話を、インタビューでお伺いする企画をお届けしております。

4人目の今回は、JCUE理事も長年勤めて頂いている村田幸雄さんに、お話しを伺いました。

【プロフィール】

  • 1952年生まれ,インストラクター資格取得:1976年11月(潜水指導団体:NAUI)
  • 2019年で43周年を迎えた
  • 2014年から2020年3月まで、琉球大学医学部付属病院の高気圧治療部にて研究生。
    2005年より酸素減圧の実験を行っている
  • 2008年3月に水中にて肺嚢胞の破裂を経験。無事に生還した。「もらった生命を大切に」
  • 1994年より海上保安庁の協力を得てヘリコプターを活用したダイバーレスキューの実証実験と潜水事故対策訓練も指導した。沖縄県でのドクターヘリについては2005年の浦添総合病院での立ち上げ時から参画。主に潜水事故対応での航空搬送の検証も行っている。現在は、沖縄県ドクターヘリ運航調整委員会に潜水事故対応としてオブザーバー参加
  • 2010年より沖縄県消防学校での潜水指導教官を拝命。沖縄県内全ての消防署員対象の水難救助隊員教育に携わっている。名桜大学にて酸素講習、スノーケリング講習も実施
  • 初心者指導、レスキューダイバー、ガイドダイバー、酸素講習等を専門に行っている

村田 幸雄(むらた ゆきお)さんと対談 JCUE会長 山中 康司

JCUEは、NAUIから始まりましたので、NAUIといえば村田さんはかかせない方ですので、今日はいろいろと聞かせてください。

村田 幸雄
はい、わかりました。

ダイビングを始めたきっかけはどういうことだったんですか。

村田 幸雄
まだ、出身地の新潟県長岡市にいた頃、小学校6年生の時、昭和39年(1964年)8月15日(土)か16日(日)か記憶が定かでないのですが、スクーバダイビングの実演を見たんですよ。昭和39年と言えば6月に新潟地震があって、10月には東京オリンピックが開催された年でもあります。
国民皆泳の日は8月14日ですが、週末に実施したのかも知れませんね。自分は、初めての水泳大会参加で、自由形で出場しました。結果は?忘れました。
会場は悠久山市営プールで、50mプールに飛び込みプールが完備されていました。
お昼の休憩時間帯にエキジビジョンとしてスクーバダイバーの実演があったんだけど、装備は、ダブルタンク、Wホース、フィンはジェットフィン、ダイバーさんは何と赤い褌一丁で!50mプールを潜ったまま往復。
すっかりスクーバ装備に夢中になりましたね。いつか自分も潜ってみたいなんて。

それは、大きなインパクトがありましたね。

村田 幸雄
中学・高校と水泳部に所属。理由は簡単。水着一枚でできるスポーツだったから。高校時代は、バタ足強化ということでスポーツショップにて足ひれを購入。ツバメのマーク入りのクレッシーサブのフィン。素足では出すことができないスピードで泳ぐことができましたね。
高校のプールの水質管理や補水は自分等で実施していたんだけど、砂濾過式のろ過機で、夏位になると緑色に変色することがあって。プール掃除の前に無礼講で水中かくれんぼ大会を実施して、透明度が悪いので一斉に潜って探すの。(笑)
水面に出したホースをくわえて呼吸を確保、でも1mでは吸えなかった。あとはバケツを水底の足場の下に置いて臨時のエアーステーションにして潜っていました。他愛のない遊びだったけど、無礼講でのゲームは息抜きしていましたね。

学生時代は、いろいろなことをやってみますよね。(笑)

村田 幸雄
自分の高校では、悠久山市営プールでの水泳大会が終わると1年生と2年生には10mの飛込み台からのジャンプの洗礼が待っていて。飛込みプールの階段は、昇り専用。
一旦、最上段の10mまで上がるとプールに飛び込むしかなかったの。
落下速度は9.8Gなので1秒くらいですかね。飛び込んだ瞬間、おへそから下が無くなった感触を経験しました。姿勢を真っ直ぐに維持しないと水面に落下した際の衝撃で大変なことになるんだよね。
落下中は叫べって上級生に言われるんだけど、なかなか声にならなかった思い出がある。自分の名前を言ってから、飛込みますって宣言して飛び降りるんだけど、水面の衝撃は綺麗に垂直姿勢で入水できると痛みは感じないけど、前に後ろに上半身がブレると痛かった。打ちどころが悪くて呼吸が一時的にできなくなった同級生もいましたよ。
飛込みが終わると、各自の持ち物を水深5mのプールに投げ落とされて、それを潜って回収するんですよ。5mと言えば耳抜きが必要ですが、当時は耳抜きの知識はなく何度もチャレンジしていました。そんな高校時代の思い出がありますね。

学生時代は、いろいろと鍛えられましたよね・・。(笑)

村田 幸雄
大学生になって東京に上京。下宿先が保谷市の教育委員会の課長さんが経営するアパートでした。
夏休み前に保谷市営プールの監視員をしないかとの話があって、早速飛びつきました。何と市役所内にダイビングクラブがあったんですよ。
役所のダイビングクラブだったのでプールを使わせて欲しいという申し出があって。自分が監視員3年目だったかな。自分が、いつかダイビングを経験してみたいという願望が沸々と沸いてきて、クラブ員の方からスクーバボンベとレギレーターの使い方を教わりました。「レギ呼吸では呼吸を止めるな」。特に浮上は慎重にとの注意事項でした。名目はプールの清掃とゴミ拾いということでスクーバボンベを借りて潜ってたんだよ。

そうだったんですね。

村田 幸雄
大学3年生の8月に市役所のダイビングクラブの誘いで三宅島に潜りについて行って、ジャックモイヤーさんの自宅前で体験ダイビングを実施しました。タンク1本で3名が15分位ずつ潜るんだけど、自分は、すんなりと耳抜きができて、水深5~10mに20分位潜ることができました。
夜にナイトダイビングをすることになって、自分は泳げるというのでウエットスーツを着せてもらい水面に浮かんで水底のダイバーへの灯台替わりで夜の三宅島の沖合で浮いていました。
10月にショップがスクーバ講習を開催するということで応募して、伊豆海洋公園で4泊5日の初心者講習を受講しました。
当時を振り返ってみて、トレーニング内容はベイルアウトも実技の項目にあって、3年後に受講したインストラクター講習のトレーニングと同じでした。
海洋公園の50mプールで泳ぎました。基礎訓練から適正訓練AやBも経験しました。耳抜きは4mの潜水プールでみっちりと潜りました。

そうだったんですね。

村田 幸雄
インストラクターやアシスタントインストラクターはBCを装着していたけど、自分等はライフジャケットでした。アシスタントインストラクターはWタンクを背負っていて、マスク、フィン、スノーケル類はクレッシーサブ。レギと残圧計はスクーバプロでした。
海洋実習の最後は、海洋公園の一の根の水深30mまで潜りました。
前日に潜水医学で窒素酔いの講義がありました。ちょっとビビりながらインストラクターの後ろについて潜ったことを覚えています。バックにはアシスタントインストラクターがサポートダイバーとしてついてくれました。

ITC並みの講習ですね。

村田 幸雄
その時の認定は小山秀夫さん(故人)で、師匠が中村宏治さんでした。

そうなんですね!

村田 幸雄
新たにフィンを購入して、当時はクレジットカードもない頃だから、月賦扱いで5千円ずつ払いに行ったんだけど、多摩地区エスプロのディ―ラーの「プロショップ多摩」深谷さんのところで、マーク5(ファイブ)が5万8000円でした。レギュレーター、マスク、フィン、ブーツは地下足袋だったけど、ライフジャケットも揃えて。リュックサックに器材を入れて、ウエイトを腰に巻いて、電車に乗って、駅から城ケ崎までバスに乗って、伊豆海洋公園に通ってた。(笑)

僕らの時は、駅から歩いてましたね。(笑)

村田 幸雄
大学4年の卒業時期になって晴天の霹靂的は事案が発生しました。4年で卒業なのですが、在籍していた研究室の助手として残ることが決まっていました。卒業式の5日前だったかな、教授に呼ばれて。今後の研究の話かなって思っていたら、「今年から助手になるためには大学院卒でないとダメになりました。」との説明があって。いまさら大学院って・・ガーン。
自分を教えてくれたインストラクターに相談したら、「いまさら就職って・・」。
当時はオイルショックの影響で大卒者の30%くらいしか就職することができなかった時期だったんでね。それで、吉祥寺の藤村水泳教室でアルバイトでもしないかとのお話を頂きました。午後2時以降から指導だと言われたので、大学には、午前中に実習助手の名目で教授のお手伝いができるので一石二鳥の話でした。

そのようなきっかけで藤村に入られたのですね。

村田 幸雄
1976年3月に大学を卒業して、4月からは藤村水泳教室にて水泳コーチのアルバイト。当時は月10万円のアルバイト料との提示がありました。
大学の実習助手の御手当は、僅かでしたが、研究を継続することができたからね。
藤村水泳教室では午後2時までに出社して3時からの児童クラスを3コマ指導していました。二年目に正社員になりましたが、午前中は大学に通うことができたからね。

大学で研究が続けられたことは、良かったですね。

村田 幸雄
実は、藤村水泳教室のアルバイト話は、ダイビングインストラクターが他のスイミングスクールに転職したので、その後釜になれとのことでアルバイトを引き受けたんですよ。
当時はスノーケリングという言葉はなく、スクーバダイビングとスキンダイビングだけで、児童クラスの競泳以外にスキンダイビングコースを作ることになりました。
数名の応募があって、夏にサマースクールをグァム島にて開催される地球人学校主催のコースに参加することになりました。
現地に到着すると話が違っていました。自分らはスキンダイビングをメインにグァム島に来たのだけど、主催者は海でのスキンダイビングは危ないということになって。そこで、
現地の旅行社の責任者の方に相談したら、大丈夫ですよって責任者の方が、そのまま現地でのスキンダイビングのコーディネートを引き受けてくれたので、ばっちりと自分等が予定していたスキンダイビングを楽しむことができました。いろいろとあるよね。

よかったですね。

村田 幸雄
1976年9月にNAUIアシスタントインストラクター検定会に参加。何とか合格して11月に開催されるインストラクターコースを受講しますかと最終判定で聞かれたので、「はい受講します。」と回答しました。何とか11月の伊豆海洋公園で開催されたNAUIインストラクター講習会に参加して、何とか合格することができました。
1976年11月受講者が24名の大所帯でした。
コースディレクターは田口哲さん、チームリーダーは、中村宏治さんでした。
レギュレーターはシングル、残圧計はあった。クレッシーのBCをレンタル。
その時は、すごいトレーニングをしてたよ。【30メートルからエアを入れながら浮上して、フレアリング姿勢をとりながら5メートルでとまれ!】とか・・。
ITCでは、風呂田利夫さん、丸山和昭さんが一緒でした。ほかには、日本テレビでダイビングカメラマンをされた鶴町さん(故人)、ほかに女性もいて、定森さんというピアニストの人だったな。スタッフには、作業ダイバーの松岡俊介(故人)さん、耳鼻科医師の大久保先生もいましたよ。

すごいメンバーですね!

村田 幸雄
その頃のITCは、遠泳もあって、富戸港から海洋公園まで泳いで、途中、気分が悪くなったら、背面になれって言われた。そのあと一の根まで行って、垂直潜水を15メートルの地点で1回、2回やって最後に10mまでいく。全員が終わるまで上がれなくて、ウエイトは、船にあげて陸に上がったんだけど、陸に上がるときには、フラフラだったことを今も覚えているよ。目をつむると揺れている感じだった。そしてその夜に400問のテストを受けて・・。
1979年には、新しいカリキュラムになって、遠泳はITCの項目から外されたね。

そうだったんですね。

村田 幸雄
1978年頃には、様々なマニュアルを当時、事務局の方から紹介してもらいNAUIHQから分厚い「NAUI PROMANUAL」取り寄せて、書物からいろいろ調べて翻訳していましたね。また、風呂田先生がシアトルに留学していたのでアメリカのITCの資料を送ってもらいました。
山口の角さん(故人)にはリビアの海底油田作業に行くというので空港まで追いかけて翻訳をお願いしたり、唐沢嘉昭さんには菓子折り一個を持ってレスキューの資料を日本語に訳してもらいました。それでITCのカリキュラムも作って・・。

その頃は、パソコンも使っていないし、まだワープロも普及していない時代ですよね。

村田 幸雄
そう、だから手書きの原稿用紙に書いてマニュアルにしたんだよ。初心者、ベーシックコースのみテキストやマニュアル制作に携わったんだけど、印刷するものは、当時、Doスポーツプラザのインストラクターのお父さんが印刷業(特攻隊からの生還された方)だったから、ずいぶん協力してもらいましたよ。お金がない時だったので、マニュアルが売れたら、少しづつお支払いをするという口約束だけでNAUIの日本語マニュアルが完成したのでした。
1979年の11月、アメリカのNAUIの会長と、事務局長が日本に来て、海洋公園でITCが行われ、小松一平さん、岸洋司さん、内藤洋さんが受講生でした。

その後、NAUI JAPANで、会長をされて、ずっと携わっていらしたんですね。

村田 幸雄
そうですね。藤村では、小松一平さんと一緒に仕事をしていました。沖縄にもその頃から通うようになっていましたね。

その後、沖縄で活動されるようになったんですよね。

村田 幸雄
沖縄には長年通って、インストラクター講習をしていました。
1994年、42歳の時に沖縄に移住して、恩納村にて『国際潜水教育科学研究所』を開業しました。

ヘリコプターでのダイバー救助の活動は、いつごろからだったんですか。

村田 幸雄
1994年の9月に、西表島のバラス島での体験ダイビングの事故がきっかけで、海上保安庁がヘリコプターを出して西表から石垣島まで急患搬送しました。それがきっかけで、ヘリコプターは使えるねという話になって、海上保安庁のヘリコプターでダイバー救助と潜水事故対策訓練を実施しました。霞が関の海上保安庁の救難課係長だった佐藤雄二さん(初代の海上保安大学卒業生から海上保安庁長官に就任)に相談。即決で、第十一管区海上保安本部と石垣航空基地を紹介して頂きました。東京から沖縄、石垣と通いました。
2005年には、浦添総合病院よりドクターヘリでのダイバー搬送の検証会などを行って、沖縄の安全対策に携わっています。
2010年には、沖縄消防学校の潜水指導教官を拝命し、18期から水難救助隊員教育を実施しています。

当時は、ヘリコプターで運ぶだけだったんですね。

村田 幸雄
ヘリコプターの人は、船の上にしか降りることができないんです。水面に降りることができないんですよ。

サーファーや、海水浴で沖に流されてしまった人は、それまではどうされていたんですか。

村田 幸雄
それまでは、漁船で誘導して、≪ここにいるよ≫と、発煙筒をたいて、伝えるようなことだったようです。
実際に僕自身も海に流されたという想定で、訓練していましたが、海面でガイドがいて、ヘリの真下で人を吊り上げる作業をしたんです。ヘリの真下で、民間人を・・・といろいろ言われましたけどね。

JCUEの安全フォーラムでも発表していただきましたよね。

村田 幸雄
海上保安庁のヘリコプターでダイバー救助と潜水事故対策訓練に携わりましたが、訓練の時には、様々な試行錯誤がありましたね。水面に降りることができるのは、潜水士のみ。機動救難士(潜水士と救急救命士の資格を持つ者)であれば、水面におりて救助できるようになりました。

資格があるかどうか、難しい部分ですね。

村田 幸雄
現在、消防士の方や、トレーニングもしているんですよ。

話は変わりますが、村田さんは、研究生をされていたのですよね。

村田 幸雄
2014年からは、琉球大学医学部公衆衛生学教室研究生として、潜水障害の調査と研究に従事しています。ガイドダイバーの潜る前と3ダイブ潜った後の検査をして、ストレス度合い、疲労度合いや、体内の様々な変化を数値で確認する実験をしています。

潜水しながらデータをとるなんて他にはないことですよね。

村田 幸雄
呼気、唾液、尿、血液等の検体を使って各種検査があるんだけど、それでストレスの度合いや、疲労の度合いなどを簡易的に指標が調べられるようなデータを、数値化できればと思っています。

その実験は、どのようにしているんですか。

村田 幸雄
男性、女性半々で、潜る前と潜った後に、唾液、尿、心臓と頸動脈の超音波検査を実施しました。
25m×4往復、20m×4往復、10m×4往復をしてもらいましたが、超音波で、カラー映像で、4,5人に気泡が見つかりました。潜水直後なので、もっと多いかと予想していたのですが、4,5人でした。

気泡ができるのはわかりますが、出ないのは、どうしてなんでしょうね。

村田 幸雄
平成29年の実験では、フリーダイビングをしてもらっての実験でしたから、今後は、実際はお客さんを連れて潜っているので、お客さんを連れながら実験を、と考えています。

この実験は、まだ続きますか?

村田 幸雄
研究生は終了しましたが、まだ続きます。平成29年の予備試験があって、どういうデータが集まるかによるのですが、一酸化窒素を測る機械が、すごく高いんだけど、それを調べることをしています。それを数値化して、確認する実験です。

一酸化窒素ですか。

村田 幸雄
一酸化窒素は、血管を拡張する作用があって、血流が増えることがどのような影響が出るのか、まだわかりません。呼気で、潜水前と潜水後に実験していますが、まだあまりデータが出ていません。平成30年は、その先の実験をしています。
それを主眼にして、論文を書くことになります。

興味深いですね。久留米大学との共同に研究になるんですね。
ところで、もう10年以上前になりますか。その時のことをお話しいただいてもいいですか。

村田 幸雄
気胸のことでしょう。
2008年、56歳の時に、体験ダイビングの手伝いをした後に、単独で水深20メートルで、動画撮影をして、水深10メートルまで浮上してきたところで、急に呼吸ができなくなったんだよね。その時は何が起こったのかわからなくて、レギュレーターのパージボタンを押して、胸に空気が入ってくるのを確認して、これで死なないなと思いました。その時は、自分では胸がつぶれているとは、わからなかったですね。顔を水面に向けると空気は出ていきました。ビデオカメラも持っていたので体のバランスをとって、パージボタンを押し続けて空気を気道に入れながら5mで3分間減圧停止を行って、次に酸素を3分間吸いました。ダイブコンピュータの残留窒素がゼロを確認してから何とか浮上しましたが、声は出ませんでしたね。

この時のことは、スタッフにもよく話しているんですが、タバコは吸っていたんですか?

村田 幸雄
タバコは30年間吸ってたけど、吸わなくなってから6年がたってたんだけどね。
肺はきれいだって言われたんだよ。でも、肺の破裂による気胸を起こして、海中で呼吸ができなくなって・・。
2005年から水中で酸素減圧を実施してたから、船上には酸素ボンベを積んでいたので、水中では空気で潜水してから水深5mにて3分間酸素減圧をしていました。船上にも酸素資機材を用意していたの酸素に切り替えて、吸い続けました。パージボタンを押して酸素が入ると見る間に顔色が変わっていったそうですよ。声は出にくかったことを記憶しています。その後、自分は中高年だし、他人の利用もあると思って躊躇しましたが、ドクターヘリを呼び、運ばれる中、酸素を吸い続けました。
ウエットスーツは、買ったばかりだったから、自分で脱いで、ヘリまで歩いていきました。その中でも、窒素を抜くことは忘れませんでした・・。病院に運ばれて、手術台に乗って、右肺が潰れていることが説明され、胸腔内に溜まっている空気を抜くために太い注射針を刺すと説明を受けたました。胸壁が厚いので麻酔が半分しか効いていないけど、刺すよ言われたので、うなづいて同意して胸腔内に針を刺してもらいました。肺が膨らんだ感触があって気を失いました。気づいたら身体中にチューブが取り付けられた状態でICUにて意識を回復しました。

大変なことでしたね・・。講習は、今どうされているんですか。

村田 幸雄
ダイビング講習は、現在も続けていますよ。1対1というわけにもいかないので、アシスタントをつけています。沖縄では、コンファインド中心だったけど、今はプール講習も必須になってきていますね。また、潜水事故があった時のダイビングサービス側のガイドラインの制作もしました。
海中で気胸を起こし、生命が危ぶまれた経験をしましたが、このもらった命を、安全対策をきっちり伝えていくこと、次につなげていくことに使っていきたいと思っています。
実際には、救急医からは10分程度、遅れたら心臓が圧迫されて正常な拍動が阻害されて生命を失ったかもしれないよって告知されました。三週間入院して、退院し呼吸器の専門医に内視鏡を使っての右肺の肺嚢胞の摘出手術を4月に実施。左肺を8月に実施しました。以後、6月と12月に定期検診を受診しています。

貴重なお話しをありがとうございました。
村田さん、今後ともよろしくお願いいたします。

【編集後記】

勝田 麻吏江
今回は、JCUE理事でもある村田幸雄さんをお迎えしましたが、長年、ダイバーの教育に携わってこられた功績をお聴きし、改めて、素晴らしい先輩との出逢いに感謝して嬉しく思いました。懐かしい方のお名前もたくさん登場し、とても和やかな時間でした。
お体大切に、これからも私たちの前を歩いていただきたいです。

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