2019年6月12日に開催されたJCUEセミナーは、昨年2018年11月に国内では116年振りにタツノオトシゴの新種と確認された「ヒメタツ」で話題になっている水俣の海。
その昔、公害による重くのしかかる歴史がありました。
「魚湧く海」といわれた海は、時間の経過とともにどのように変化をしているのでしょうか。
熊本出身の写真家、尾崎たまきさんが見た水俣の海を語って頂きました。

目次

水俣との出会い

水俣というと、皆さんが最初に思い浮かべるのが「水俣病」ではないでしょうか。私達の年代では、授業で学び、耳にしたことがあると思いますが、原因企業のチッソがアセトアルデヒド製造工程で、副反応によって生成されたメチル水銀。このメチル水銀が工場排水として、未処理のまま海や河川に排出され魚介類に高濃度に蓄積し、それらを食べた住民が水俣病の被害に冒されました。これらが、1950~60年代と長い期間にわたり、汚染され続けられました。1970年代生まれの私は、熊本に住んでいながら、遠い昔に起きた出来事のような感じを受けながら、学校で学んでいました。

何故、私が水俣の海を潜ろうと思ったのか、そのきっかけは24年前に騒がれていた「仕切り網撤去」を巡る報道でした。仕切り網というのは、4.4㎞という大型仕切り網を設置し、汚染魚の拡散を防ぐために水俣湾に設置されたものです。網の内側は汚染魚で禁漁、外側は汚染されていない魚なので、漁が許されていました。毎日のように報道される、仕切り網撤去の問題に対し、「今、撤去をするべきだ」「いや、まだ早いのではないか」と討論をされていました。その報道を観ていて、「実際、海の中はどうなっているのか?海を仕切ると言う事は果たしてできるのだろうか?」というダイバー魂と好奇心で、海へ潜ろうと思ったのです。

水俣の海に潜る

 実際に潜るために、まずは場所の下見から始めました。飛び込めばどこからでも潜ることは可能でしたが、一人で海から上がることを考えてハシゴがある場所を選びました。ただこの場所も90度のハシゴであったため、潮が満ちている時は良かったのですが、潮が完全に引いてしまうと上がるのに苦労をしました。カメラ持っていたので、鎖にロープをくくりつけ、カメラやウエイトを引き上げたりしていました。
 本来、このような海に潜る際には、漁協・役所等に事前に許可申請が必要ですが、この時はどこにも届を出さずに潜っていました。今になり、多くの方と知り合いになりましたので、「もしあの時に、許可を申請していたらどうなりましたか?」と質問をしましたところ、「絶対に許可は出さなかった」と言われました。あの時、事前に申請をしていたら、今まで撮影をしてきた写真は、現在残らなかったのだな…24年前だったので、この様な事も大切だったのかな…とも感じました。
 仕切り網が設置されてから、20数年経過した1995年に初めて潜りましたが、一番ひどかった時期の海を私は見ておりません。地上では、汚染魚がまだ多くいる「死の海」のイメージが色濃く、自身も「奇形の魚がいるのでは?本当に魚が住んでいるのか?」とマイナスイメージが先行していました。

海中の驚きの光景

  私が最初に潜った場所は、正面に恋路島という無人島が見え、足元は渚であったがヘドロがたまり水銀で汚され、浚渫工事で埋立地にされたところです。仕切り網撤去の数年前に、島から延びるような形で半分の距離に縮小された網に変わりました。
 実際に潜ってみると、仕切り網沿いにびっしりと、網が見えないくらいのスズメダイが群れていました。悠々と泳ぐスズメダイやメジナ、クロダイが群れ、観たこともない位の大きさのアワビが岩に付き、自分が聞いていた印象とは全く違う光景に驚き、死の海ではなくいのち溢れる海だと感じました。仕切り網の内側は、漁が出来なかったことによりサンクチュアリ的に守られ、網が漁礁になり生態系が守られていたのではないかと感じました。網の内外を悠々と泳ぐ魚達や豊かな海に感動し、「私はこの海を一生、撮り続ける!」と無意識に、直感的に感じたことを強く覚えています。

 仕切り網は汚染魚の拡散を防ぐためのものでしたが、実際には大きな穴が開いていたり、岩などの障害物により隙間が空いたりしていました。港なので航路の関係上、仕切り網が途切れている箇所がありました。魚が行き来してしまわないのか?と疑問に思い行政の方に確認を取ると、魚が嫌う音を出し、通らない様にしていると言われていました。実際に潜ると魚は行ったり来たりしており、それを目にした時に、疑問を感じたことを覚えています。網の内外で汚染魚と、そうではない魚という人間が作った境界線は、実際に水中で魚と対峙し、本当に滑稽な事をやっているのだと、改めて感じたのです。実際に自分が見た光景を伝えるために、網沿いで起こる様々な生物のドラマを記録しました。網に産み付けられたアオリイカのタマゴを見つけ、「生まれた赤ちゃんは、網のどちら側に泳いでいくのだろう」と考えながら撮影することもありました。網に引っ掛かり命を落とした魚もいました。仕切り網が撤去されるまでの2年間は、水俣を象徴し伝えやすいということで、網を入れて撮影をしていました。

海中から陸上への視点の変化

 1997年に仕切り網の全面撤去となり、それに伴い数か月の工事が始まりました。人の手が入り、仕切り網がなくなった海は、とても殺風景で魚との出会いも少なくなったのです。普通の海に戻ったと言う喜ばしさがありましたが、網がなくなった風景でどのように水俣を表現したら良いのかと悩んだ時期でもありました。潜り始めたころは、地形が判らなかった事もあり、恋路島まで水面移動をして潜行をしていましたが、仕切り網が撤去された後は、潮通しがかなり良くなり水面移動が出来なくなったのです。3㎝角の網でも、水の流れが滞っていたのだと、実際に泳いで分かりました。その影響か水中環境にも変化をもたらし、トゲトサカなどの腔腸動物が今までなかった場所に、見られるようになりました。そして、網があった禁漁の場所に、刺し網が入れられたり、タコツボが沈められていたりし、漁師さんたちの生活を感じられるようになりました。そのシーンを見るたびに、この海で獲れた生き物を糧に生活している人がいるのだと感じ、そこで暮らす人々に目を向けるきっかけとなりました。

漁師さんとの出会い

 漁師さんに会ってみたいと思い、ごち網漁、刺し網漁、シラス漁をしている方々と出会い、船に乗せて頂きました。その中でお会いしたご夫婦が、シラス漁をされている杉本栄子さん、雄さんです。一見、健康そうに見えますが、お二人とも水俣病認定患者なのです。初めに栄子さんのお母様が体調を崩されましたが、その当時は伝染病やマンガン病と言われ周囲からの差別を受け、外出が出来ない状態が続いたりしました。その後、水銀中毒による水俣病が原因だと判明し、お母様、ご夫婦共に裁判により水俣病認定をされました。水俣というのは狭いコミュニティの中で、水俣病の患者さんやそのご家族もいる、原因企業のチッソで働いている人とその家族、皆が隣近所に住んでいます。よって、裁判に勝つことによって支払われる補償金等で、妬みを買ったりもしました。

 栄子さんは、網元の娘さんで幼いころから船に乗り、様々な漁を行っていました。病に冒され、一時は寝たきりの状態でしたが「自分の身体を直すのは、自分が育った海しかない」ということで漁を再開されたのです。そして、「人を憎んでも仕方がない、人が変わらんなら、自分が変わる」と表舞台に出るようになり、語り部として自分たちが経験したことを伝える活動もされていました。
 ご夫婦は、シラス漁をされていましたが、その理由は「シラスは寿命が短く回遊する魚なので、海底に沈む水銀の影響を受けずに、安心安全に食べてもらえる」との事からでした。残念ながら栄子さんは11年前、ご主人の雄さんも4年前に亡くなられました。今は、二人の息子さんが引き継いで舫い船で、漁をされています。舫いという言葉ですが、水俣では一度バラバラになった絆や人達を元に戻す、やり直すと言う事で舫い直しという言葉を使たりもするのです。

ヒメタツと出会う

 水俣の海は、遠浅で海藻が森の如く繁茂し、多くの生き物を育みます。この景色に見せられ、毎年4~6月くらいに通っていますが、4年前にタツノオトシゴのオスに出会いました。サイズが小さめであった為、撮影に苦労するなと思っておりました。4年前にさかなクンと一緒に潜った際に、「タツノオトシゴよりも小さいし、なんかちょっと違うのではないですか~どう思いますか?」と言われ、私は全く疑問にも思わず、「新種だったらいいね~」と笑い話の様にやり過ごしており、そのままになっていたのが2015年の話しです。その2年後の2017年に、瀬能先生たちの論文で、タツノオトシゴとは別種のヒメタツを発見したと発表されました。そこで、さかなクンが撮影した写真を瀬能先生に見て頂いたところ、なんと水俣のタツも新種のヒメタツだと言う事がわかりました。ヒメタツはタツノオトシゴに比べてやや小さく、頭の突起が低いなどの特徴があります。
少々タイムラグがあり、水俣のタツが新種であると判ったのが、2018年1月でした。

 タツノオトシゴは、オスが子供を産むのでお腹の大きなオスを見つけ、生まれる瞬間を撮影するために粘ってみようと観察を続けました。明け方に生まれると聞いていた為、早朝5時から明るくなるまで潜るが生まれず、時間を早める等、数日間を過ごしましたが結局生まれずに次のロケ地に移動をしました。その間、一緒に観察をしていた水俣ダイビングサービスSEAHORSEの森下さんが、毎日観察を続けた結果、考えていた時間帯と違うのではないかとの事で、時間を変更してようやく出産シーンを観察できたのです。

私は、ヒメタツを狙い続け、1年目は結局撮影が出来ず2年目にして、ようやく出産シーンに立ち会えるチャンスが訪れました。オスが右に左にダンスを踊るように、身体をブンブンと振り始めますが、それが出産の合図なのです。その後、前後にもがくような屈伸運動をしながら、お腹を膨らませたり、へこませたり、水流を作りながらポンポンと産んでいきます。お腹に子供が残っていないかを確認するために、長いと30分近く身体をくねらせるのです。そんなシーンを撮影していると、魚でありながらも、産みの苦しみを味わい、豊かな表情を見せたのです。ヒメタツは、出産で苦しむ姿、生まれた子を見つめる…人間的な感覚を持っているのではないか?と感じたのです。タマゴを受け渡す時にハートの様に見えるのですが、このタマゴの受渡しは3年目で成功をしましたが、どこまで近づいたら良いのか距離感が判らず遠くでしか撮影が出来ませんでした。そして翌年、イメージするハートの撮影に成功しました。つかまっていた海藻から離れ、ペアの尾を絡みあわせ漂い始めます。オスがお腹を膨らませアピールをし、メスは輸卵管を通してオスの育児嚢へ産卵をします。タマゴの数は、おおよそ50~100個と言われています。

ヒメタツのサンクチュアリ

 ヒメタツの観察を行っている場所は、湯の児温泉街にあります。観察を終え、海から上がると、ちょうど朝日が昇ってくる時刻です。この場所は、24年前には護岸工事をしていました。水中は、人工的なブロックがいくつも並び、ブロックのトップで水深が4~5mです。ヒメタツの観察を行う春先は、海藻がモリモリと繁茂し、その中で多くの生態系が育まれています。よって、海藻の中に着底して撮影をするのは、かなり注意をしなければいけません。ヒメタツの観察・調査を続けている森下さんは、毎日、この海に潜り詳細なるデータ収集を行い、海藻の森を守っています。水深も浅く、岸からも近いのでエアがなくなれば、直ぐに海からあがることができる環境なのです。

 ヒメタツは、昔からこの場所にいたのかは定かではありません。水銀で汚染され、人の手が入った時は、この場所ではなく他で棲んでいたのかもしれません。その後、安全な場所だと判り戻ってきたと思うのです。この海は、海藻が生い茂りプランクトンが驚くほど多く、栄養豊富で内湾の為、穏やかな海況であると共に、外敵である大きな魚が少ないと言う点もヒメタツが繁殖する条件に合っているのではないでしょうか。現在、水俣の海をヒメタツのサンクチュアリとして育てるために、森下さんが構想を描いてくださっています。是非とも、ヒメタツに会いに水俣を訪れてみて下さい。

まとめ

 1956年5月に、水俣病が公式発見されてから今年で63年が経過しました。豊かな漁場は、環境汚染により「死の海」と揶揄される場となり、そこで暮らす人々を苦しめてきた歴史があります。たまきさんが見つめ続けた24年という歳月は、破壊された環境やそこに生きる命と真摯に向き合い、見守り続けた時間です。自然の持つ回復力に驚き、新たに育まれた生態系に喜び、人と出会うことで苦しみと悲しみを共にし、そしてそれらを乗り越える人の強さを学んだ大切な時間だったのではないでしょうか。

小さな好奇心から始まった水俣の海との出会いは、写真家・尾崎たまきさんの生涯をかけるテーマとなりました。何事も、トライ&チャレンジし、常識にとらわれず、目の前に繰り広げられる真実を見つめ、自身へと落とし込む。たまきさんが撮影する1枚1枚の写真は、人柄が投影されているからこそ、見る者にじんわりと感動を与えてくれるのです。

 あっという間の90分、参加された皆さんの中には、実際に水俣の海でヒメタツの観察や撮影をされた方もいらっしゃいました。山の豊かな栄養を含んだ水が流れ込む水俣の海は、いのち溢れる海へと蘇り、ダイバーの注目を集めています。セミナー終了後に、「水俣の海へ行きたい~!」と、皆さん口々に言われていました。人間が自然環境に「圧力」をかければ、あっという間にバランスは崩れるかもしれません。今ある環境を育みながら、大切に見守り続けたいですね。

尾崎たまき氏著書

2019年 「フシギなさかな ヒメタツのひみつ」(新日本出版社)

2015年 フォトエッセイ『 お家に、帰ろうー殺処分ゼロへの願いー』(自由国民社)

2014年 写真集『水俣物語』(新日本出版社)

2013年 写真絵本『みな また、よみがえる』(新日本出版社)

報告:山内 まゆ

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