ダイビングをすれば減圧症は、避けて通ることはできないリスクです。
「何mまで潜るか」「何分潜るか」というダイビングを制限することが非常に重要なのですが、それだけではなく、「どのように浮上するか」も重要な課題です。
しかし浮上というアクションを実験的に解析することは、とても難しい問題でもあるのです。
例えば、ダイブコンピューターの浮上の警告音の正体は何なのでしょうか?
今回は、浮上について少し振り返ってみました。
目次
1.自分で作る病気。減圧症
体には窒素ガスが否応なく溶けこむ
大気圧のもとで暮している私たちの体には、周囲の空気が溶け込んでいます。大気は主として酸素と窒素がからできていて、そのうちの窒素は、不活性なガスとして物理的に溶け込み、大気の中の窒素と人体に溶け込んだ窒素は圧力的に平衡し、飽和状態にあります。
例えば20mの深度では、普段の環境の大気圧と比べ3倍の圧力です。水深20mに滞在し平衡(飽和)に達した場合、ここから一気に水面に浮上すると、窒素ガスは浮上によってとてつもない過飽和の状態になります。組織に溶け込んでいた窒素ガスは、組織から遊離して血液循環を通じて、肺から外に排出されます。しかし、周囲の圧力の低下が早いと窒素ガスは体内で気泡化し、その気泡が組織にさまざまな障害を起こすというのが減圧症のメカニズムです。
減圧理論の誕生
ダイビングをしたすべての人に減圧症が発症するわけではありません。そこで、「体内に溶け込んだ窒素ガスのレベルに違いがあるのではなかろうか」と考える人が出てきて、どれだけ窒素ガスを溶け込ませたら、危ないのか実験を始めます。目に見えない体内での窒素ガスの溶け込みを、時間と圧力という2つのパラメーターでモデル化し、統計立ててみるという、人体の生理を時間と圧力だけでくくり、作られたのがダイブテーブルです。非常にシンプルでかつ大胆な試みです。
人体に溶け込む窒素ガスの量をある許容レベルに保てば、減圧症を発症させないですむという仮説のもとに組み立てられているのが、私たちが使っているダイブテーブル、ダイブコンピューターの原理です。このようなタイプの減圧理論を溶解理論と言います。最初に提唱したのが、ジョン・スコット・ホルデーンなので、このタイプの減圧理論をホルデーンモデルと言い、私たちが使っている多くのダイブコンピューターは、修正されたモデルなので、ネオホルデーンモデルとも言われます。
ダイバーは全員が減圧症予備軍
大切なことはダイビングをする限り、この過飽和の状態は避けられないということです。つまりダイビングをする限り、誰もが減圧症患者の予備軍になって浮上してくるのです。潜在的減圧症予備軍であるのは仕方のないこと、せめて、症状の出ない予備軍のままでいようするのが減圧理論なのです。
長い前書きになりましたが、ここで重要なのは、私たちダイバーはスポーツという名のもとで、異常な環境の変化に身をさらしているということです。減圧症という病気は、ダイバー自身が作る、きわめて特異な病気です。自ら作ったリスクの境目で、危ない綱渡りをしているということです。残念なことに、ダイブテーブルやダイブコンピューターが、減圧症にかかるリスクを完全にゼロにしてくれるというのは、現実には不可能なのです。しかし、ダイバーの生理的な個人差や、環境条件が多くある中で、ダイブテーブル、ダイブコンピューターは減圧症の回避に大きな貢献をしていることは間違いありません。
2.モノレベルダイビングからマルチレベルダイビングへ
ダイブテーブルはモノレベル(箱型ダイビング)
ダイブテーブルは、ある深度に何分いたら、減圧症が発症するかという観察実験をベースにしています。この観察実験は、同一深度での実験でさえ膨大な時間を要します。スクーバダイバーのように深度を変えて動きまわるダイビングの実験は、現実には不可能です。ですから、同一深度にいると仮定して窒素ガスの吸収レベルを決定します。このようなダイブはモノレベルダイビング(箱型ダイビング)といわれます。
ダイブテーブルでのダイビングでは、浮上は無減圧リミットを守りさえすれば、そのまま水面に出ればよかったのです。というより、浮上を開始したら規定の浮上スピードで水面に出なくてはいけなかったのです。さらに、規定スピードよりも浮上が遅れた場合、その遅れた時間分を潜水時間(ボトムタイム)に加算するルールでした。浮上の遅れはそのダイブの制限ファクターと考えられていました。
到達した最大深度にそのダイブのすべての時間を滞在したことにして、体内の窒素ガスの蓄積を計算します。ダイバーは現実には深度を変えて動き回りますから、この計算の仕方はある意味では不合理です。しかし見方を変えれば、確実な安全へのクリアランス(余裕をもたせる)を保つ方法なのです。
浮上を始めると体組織の窒素ガスは全体的に排出の方向に向かいます。(浮上を開始しても、理論的にはガスを吸収している組織はあるのですが)簡単に言えばダイブテーブル によるダイビングでは、最後の浮上を始めるまでの時間を加圧の時間、そして浮上を開始してからは減圧の時間としてとらえています。つまり、窒素ガスの吸収の時間と排出の時間の区分けが明確だったのです。
ダイブコンピューターはマルチレベル
ダイブコンピューターは深度や圧力の変化を継続的に測りながら、体内の窒素ガスの圧力を計算し続けます。深度変化に対応するので、このようなダイビングはマルチレベルダイビングといいます。
ダイブコンピューターの初期には、使用反対論がありました。その根拠は、ダイブコンピューターが浮上によるリスクを正当に評価できるかということです。窒素ガスの許容リミットは、ダイブテーブルの実験結果をベースとしています。モノレベルダイビングの実験で作られたダイブテーブルを拡大解釈して、ダイブコンピューターのマルチレベルダイビングにそのまま応用してよいかという疑問です。実際に当時、多くの潜水生理学の専門家がこのような反対論を発表していたのです。
ダイブコンピューターは、現深度での窒素ガスの圧力を計算するので、浮上するにつれて無減圧リミットが変化します。浮上することでダイビング可能時間を生み出すという状況が生まれます。ダイビング可能時間が伸びるということは、圧力下にいる時間が全体として長くなり、浮上しているにもかかわらず組織によっては、窒素ガスを取りこんでいるという状況が生まれてきます。浮上の過程が必ずしも窒素ガスの排出のプロセスではなくなり、これまでの考えかたが、見事にひっくりかえってしまいました。
ダイブコンピューターによるダイブテーブルのマルチレベルダイビングへの応用は、ダイブコンピューターがダイビングの途中でも減圧プロファイルの計算をするだけでなく、浮上の定義を変えてしまうことになりました。その結果浮上に関係する、様々な問題が考えられるようになり、それに対応するルールやテクニックが考案されてきました。ダイブコンピューターによる、モノレベルダイビングからマルチレベルダイビングへの変化は、浮上スピードの変更、スローアセントの提唱、安全停止、シャロ―ストップとディープストップなど、全体として浮上を遅くさせることになり、浮上のテクニックそのものにも影響を与えていくことになります。
3.無減圧ダイビングという奇妙な用語
すべてのダイビングは減圧ダイビング
減圧不要限界というダイビング用語があります。アメリカ海軍のダイビングマニュアルにあるノーディコンプレッションリミット(NDL)を直訳した用語です。そして減圧不要限界内のダイビングを無減圧ダイビングと呼びます。この意味は浮上途中に減圧停止が不要だということです。そそっかしい人には、リクリエーションダイビングは減圧のプロセスがないダイビングと誤解されています。しかし、すべてのダイビングは深度下で加圧され、水面に戻る減圧の過程があります。どんなダイビングも減圧ダイビングです。
2000年代に入って、多くのダイビングマニュアルでは、ノーストップタイム、あるいはノーストップリミットという用語が使われるようになりました。このノーストップタイムやノーストップリミットという用語の良いところは、全てのダイビングは減圧ダイビングで、途中で減圧ストップをするか、しないかの違いにすぎないという現実を体現しているところです。
しかし、日本の多くのダイビングトレーニング団体のテキストには、この減圧不要限界や無減圧ダイビングという用語が残っています。リクリエーションダイビングの黄金ルールは、無減圧ダイビングですが、減圧のプロセスがないダイビングではなく、減圧停止の必要がないダイビングであり、浮上途中でストップしないだけで、窒素ガスが蓄積していないということではありません。
窒素ガスの過飽和の影響が消えるまでがダイビング
蓄積した窒素ガスが排出されダイビング前の状態に戻るには時間がかかります。窒素の蓄積量で考えると、無減圧ダイビングは、ノーストップといっても浮上途中でストップしないだけで、水面(0m)での長い減圧停止をするダイビングとも言えます。水面休息時間を減圧停止時間と考えれば、水面休息の重要さも理解できます。更に言えば水面に戻ったダイバーは、蓄積した窒素ガスの過飽和の影響が消えるまで、浮上のプロセスの中にいるということになります。水面休息時間も浮上と考えれば減圧時間であり、その時間帯はできるだけ過度な運動を避けて、大気との新たな平衡に戻るまでの時間を過ごさねばならないことの理由なのです。
4.複雑化していく浮上
DANの創設者のピーター・ベネットは、「この数十年減圧表は、改訂され続けて、オリジナルのUSNAVYのダイブテーブルに比べて、多くの部分で、深度に対するダイビング可能時間は大きく短縮されていますが、減圧病の発症にはほとんど変化が起きていないのです。最近のダイブコンピューターの普及も、ダイビング障害に対して大きな効果を出していないのです」「また減圧障害は、ダイバーがダイブコンピューター、ダイブテーブルを使用しても、性別、年齢分布、トレーニング度などとは関係なく起きています。(中略)問題は浮上時間が短すぎるところあるようです。その浮上のパラメーターは、40年間以上ほとんど修正されていません。したがって浮上スピードがDCI(減圧障害)事故のコントロール要因になっている可能性があります」と言っています。
つまりダイビング可能時間を削っても、減圧障害の発症率は下がらない。つまり窒素ガス蓄積の限界を追いかけるだけでは、どうにもならない、窒素ガスの排出の過程=浮上の方法を考える必要がありそうだということです。
ダイブコンピューターを使ってマルチレベルダイビングを始めるまでのダイビングは、ダイビング中の体に溶け込む窒素ガスをコントロールすることに主眼が置かれていました。それだけに浮上の手順は非常にシンプルでした。
しかし現在では浮上スピードは遅くなり、無減圧ダイビングにも安全停止が一般化し、さらにはディープストップといった、これまでとは理論ベースの違う浮上手順が提唱されています。ダイビング可能時間が短縮される傾向と同じように、浮上も遅くなる傾向が顕著です。
そこで、浮上を考えてみることにしましょう。水面にノーストップで戻るだけでなく、どのような浮上スピードが良いのか、安全停止や減圧停止やディープストップの効果は、更にダイビング後の飛行機搭乗等、どれも浮上のテーマです。
5.正しい浮上スピードはあるのだろうか?
浮上スピードはさまざま
多くのダイブコンピューターはスイスモデルといわれる、スイスのアルバート・ビュールマンが開発した計算式(アルゴリズム)ZHL-16を採用しています。その取扱い説明書には、浮上スピードは10m/分を越さないように指示されています。ダイブコンピューターはダイブテーブルの応用ヴァージョンですから、当然もとになっているダイブテーブルの浮上スピードが10m/分ということです。
しかし世界中にはそれぞれの理論と実験結果に基づいた様々なダイブテーブル(減圧テーブル)が存在します。アメリカ海軍のダイブテーブル(USNAVYテーブル)は1994年に9m/分に変更されるまで、約30年間18m/分でした。そしてそのリクリエーションヴァージョンであるPADIの普及させている、リクリエーションダイブプラナー(RDP)は現在でも18m/分です。またイギリスのダイビング組織BSACが採用している、BSAC-88は15m/分です。
多様な浮上スピードが存在します。ZHL-16とRDPでは、2倍近く浮上スピードが違います。そしてそれぞれのダイブテーブルはそれぞれの浮上スピードを守ることを推奨しています。
このようにダイブテーブルによって浮上スピードが違うのはなぜでしょうか。実際にどのような浮上スピードが正しい浮上スピードなのかは常に論争の的です。
安全を保証する浮上スピードなどない
では正しい浮上スピードといったものがあるのでしょうか。
初期のホルデーンなどの浮上スピードは1.5~9m/分で、動物実験のときの減圧のペースを示しています。1920年代から1950年代では7.5m/分で、これはヘルメットダイバーの作業効率から決められたようです。スクーバの黎明期の1958年、アメリカ海軍が採用した18m/分という浮上スピードは、当時普及し始めたスクーバでの自由な行動を意識したものとされています
アメリカ海軍の18m(60フィート)/分は、1秒間に1フィートという設定で、ヤードポンド法の国では、これが便利だということのようです。またビュールマンのZHL-16は、1大気圧=1kg/c㎡(深度10m)に相当するので区切りがよい10m/分になっています。
ビュールマンモデルの10m/分とアメリカ海軍の18m/分は、確かに大きく違うのですが、この2つのダイブテーブル は換算表もあるぐらいで、双子の兄弟のような同じ理論に基づいたダイブテーブルです。しかし、浮上スピードはまるで違う。浮上スピードの根拠は必ずしも理論的なものではなさそうです。
これらの浮上スピードの違いは、ダイブテーブルを開発したときの実験の減圧スピードによるものです。この浮上スピードで実験しましたということです。
言いかえると「これより速い浮上スピード、すなわち減圧スピードは実験していないから、そのリスクは分かりません」ということになります。分からないから安全と言えない、だからリスクがあるという理屈です。
現実のダイビングシーンでは、ダイブテーブルが想定している浮上速度を越えてしまうこともありますが、それをカバーする緊急手順は聞いたことがありません。人体に影響の少ない浮上スピードあるとすれば、それより早ければ減圧症のリスクが高まることは十分に考えられ、非常に分かりやすいのですが、残念ながらそのような実験はあまりされていないのです。
浮上スピードというものはあくまでも、「それぞれのダイブテーブルが指示する浮上速度より速いとたぶんリスクが高まるはずだ」ということにすぎないのです。
6.遅くなる浮上のプロセス
サイレントバブルの発見
1960年代の後半になってメリル・スペンサーが無超音波検知器を使った実験で、ノーストップリミットの範囲内でのダイビングでも、ダイバーの体内には気泡が形成されていることを発見します。これまでの減圧理論では、溶解ガスが限界圧力を越えるとははじめて気泡が形成されるという仮説が前提で組み立てられていますが、この大前提がひっくり返ってしまったのです。許容限界値(M値)を越さなくても気泡が形成されることになります。M値は減圧症の発症という広大なグレーゾーンに引かれた、単なる目安にすぎなかったということです。
ゆっくり浮上の提唱
人体に取り込まれる窒素ガスを限界内にコントロールしても、気泡が形成されることから、窒素ガスの限界を追いかけるだけでなく、形成された気泡を成長させないようにするには、どうしたら良いかが大きな課題になります。また取り込まれた窒素ガスを浮上の途中で排出したほうが良いのではないかという視点が生まれ、その結果1980年代の半ば頃から、浮上の過程をコントロールし、浮上を遅らせたほうがよいという傾向が生まれます。
また溶解理論は不活性ガスの吸収の過程と、排出の過程が同じように起きるというのが、前提で構成されています。しかし、最近では排出により時間がかかるというよりコンサバティブな考え方が提唱されています。
リクリエーションダイビングの指導団体は、Slow Ascentゆっくり浮上を提唱しはじめ、浮上は速すぎず遅れずから、速すぎずに変化したのです。
2004年のマローニの実験では、25m/25分の反復ダイブで、3m/分、10m/分,18m/分の浮上スピードが比較されています。結果は18m/分よりも10m/分の浮上スピードのほうが検知された気泡は少なかったのです。ところが、さらに遅い3m/分の浮上スピードの気泡が最も少なかったわけではないのです。
一方2009年にも浮上スピードについてのある実験結果が発表されています。9m/分と18m/分の浮上スピードで、47人のリクリエーションダイバーを比較しました。ダイブ後の様々な時点で気泡数が計測した結果、やはり速い浮上のダイバーグループの気泡が多かったのです。
現在は多くの考察や研究から、単に浮上スピードを遅らせるよりも、浮上の途中で予防的な停止をすることにより、減圧症のリスクを軽減しようとする考えかたが主流になっています。これが、安全停止です。安全停止は浮上スピードを遅らせる手段ともいえます。
結果として9m/分、10m/分といったかなり遅い浮上スピードに、5m前後での安全停止を組合わせることが推奨されています。
7.安全停止
安全停止の提唱
安全停止はリクリエーションダイバーの世界では、1984年にPADIがそのオープンウォーターマニュアルで、最初に提唱したとされています。遅い浮上が提唱されたことの背景には、窒素ガスの吸収の限界を追いかける溶解理論ではなく、存在する気泡を大きく成長させないことを重視する気泡理論が提唱されたこと、また初期のダイブコンピューターが市場に登場し、マルチレベルダイビングのリスクが懸念されたことがあるようです.
安全停止の定義
安全停止はノーストップダイブのときに、安全要因として付け加える強制的ではない停止です。その効果は水面に出る前の圧力変化の大きい3~6mの深度域で、人体に数分間の余裕を与えるというのがこの安全停止の基本的な考えです。最近では多くのダイブコンピューターもこの安全停止を指示するようになっています。
しなくてはならない停止ではないので、しなかったからと言ってペナルティがあるわけではないのですが、リクリエーションダイビングでは、ほとんど“ねばならぬ”停止になっています。しかしながらその安全停止の効果を実証した実験はあまり多くはないのです。
意外と少ない安全停止の実証実験
1974年に南カリフォルニア大学のピルマニスが、はじめて安全停止の実験をしました。30m/25分のダイブで、3mで2分間の安全停止をすると、超音波検知器で検知できる気泡が大幅に減っていること、また5分間の停止をするとほとんど検知できないほど減っていることを発見しています。
またその20年後の1994年に、ウグチオーニが30m/28分のダイブで6mの安全停止をしたケースとしなかったケースの比較実験をしています。その結果、安全停止をしなかった50人のダイバーのうち42人、84%に気泡が検知され、安全停止をしたグループでは18%に減っていることが確認されています。この実験には、ダイブコンピューターの初期的なモデルが多く発表された時代背景があります。
さらに2004年DANヨーロッパのマローニは、浮上スピードと安全停止を組み合わせたプロファイルの実験をしています。結果は速すぎない浮上スピードと安全停止を組み合わせるプロファイルが、最も気泡の検知が少ないとされています。
今やほとんどルール化している安全停止ですが、ピルマニスの最初の実験から、マローニの実験まで30年もの時間がかかっているのです。ダイビングの科学的裏付けというのは意外と多くないのです。
これらの実験から安全停止と速すぎない浮上スピードが、ダイブ後に検知される気泡が少ないことがある程度実証され、現在では世界で年間何百万ダイブ、何千万ダイブが安全停止をともなって行われています。
8.なぜ安全停止
浮上スピードよりも窒素ガスを効果的に排出する
安全停止をすることによって、ダイブ後に検知される気泡が少ないことが分かってきました。ここで重要なのは、かつてはノーストップリミットを守っていれば気泡は形成されないと言われていたのですが、現在ではノーストップリミットを守っても、気泡は形成されている。しかもダイブ後少し遅れて検知されることが分かっています。
そこで浮上する直前にこの体内の窒素ガスを少しでも排出しておいた方がよいのではないかという考え方、体の中の窒素ガスの圧力を下げようとすることから、浅いところでの予防的な停止が提唱されたのです。予防的な停止という意味でプレコーショナルストップという用語が使われたこともあります。前にも述べましたが、予防的ではあっても、現実に減圧停止です。リクリエーションダイビングのノーストップダイブという鉄則は、大げさに言えば安全停止の導入で崩れてしまったのです。
どのような組織の窒素ガスを排出させるのか
現在の標準的な安全停止、5mで3分間という短時間の停止意味はなんでしょうか。この短時間の理由は、窒素ガスの吸収と排出の早い組織をターゲットにしているのです。
DANによれば、リクリエーションダイバーの減圧症は、その70%近くが脊髄中の神経系に起きています。この神経系は窒素ガスの吸収排出の早い組織に属するとされています。スクーバダイバーは深くて比較的短時間のダイビングをするので、結果吸収排出の早い組織に窒素ガスの過飽和が起きます。短時間でフルに窒素ガスをため込んだ組織は、窒素ガスを排出しきれずに減圧症を起こすとされています。
この早い組織の窒素ガスを逃がすのが、安全停止という予防的な停止です。窒素ガス排出の早い組織なのでわずか3分間の停止でも、効果があるとされています。
安全停止はどの深さがよいのか
安全停止の目的は水面に出る前に、窒素を排出する余裕を設けることです。初期の安全停止の深度は3mが推奨されました、理由は減圧停止のもっとも浅い停止点が3mだったからです。
そして浅ければ浅いほど、ダイバーの体組織の窒素ガスの圧力と、周囲の圧力の差は大きく、窒素ガスの排出(オフガシング)が速いからです。
その後15フィート(5m)が一般的になりますが、これは窒素ガスの排出よりも、水面直下の浮力のコントロールのへの対応のしやすさのほうが、優先されたことによるとされています。
どちらにしても、この安全停止という早い組織を意識した減圧停止は、さほど深度を厳密に守らなくても、効果は十分に考えられるのです。スクーバダイバーの減圧症の多くに関与する、早い組織は圧力をため込んだままでいられる、大きな許容度があるので、理論上は3mでも6mでも大きな排出効果が考えられます。もともとやらなくてもよい停止を予防的な目的でするのですから、あまり深度に神経質になる理由はないということです。
同時に排出の早い組織のための停止ですから、延々と時間を延ばしても、オフガシングの効果はないことになります。
1990年代になって安全停止が提唱されるようになった背景には、BCDの普及があります。BCDのない時代、ダイブ後の空のシリンダーを背負ったダイバーが、水面近くで停止するなど至難なことでした。(ノーストップダイブがリクリエーションダイビングのルールの1つの理由です)。
9.安全停止シャロ―ストップとディープストップ
ディープストップの提案
安全停止はリクリエーションダイバーの早い組織の減圧症に対する、浮上スピードを遅らせる手段という考え方に基づいています。リクリエーションダイビングの比較的深くて短時間のダイビングを想定しています。
前にも出てきたマローニの実験結果は、適切な浮上スピードに安全的な停止を付け加えると、検知される気泡の数が減っていたというものです。このような浅いところでの安全停止を、シャローストップと言います。さらにマローニの実験では、このシャロ―ストップ(5m)にさらに深い15mに5分間の停止(ディープストップ)を付け加えると、さらに検知される気泡が減ったとしています。このディープストップがリクリエーションダイビングに有効かどうかは、まだ多くの意見が分かれています。
それでもダイビングトレーニング団体のNAUIなどは、最大深度の半分のところで、ディープストップを2分し、さらに4.5~6mでの2分のシャロ―ストップをリクリエーションダイビングに取り入れても良いだろうという提案をしているようです。
ディープストップの目的
ディープストップは、気泡を排出させるのがその目的ではなく、すでに体内に形成されている気泡を成長させないようにする、いわゆる気泡理論をもとにしています。窒素ガスの排出に余裕をもたせる安全停止のシャロ―ストップとは考え方のベースが違うのです。深いところでのストップはさらに窒素ガスの吸収を促してしまうという溶解理論からの反論もあります。しかし考え方のベースが違うのですから、単純に比較はできません。
これからこのシャロ―ストップ+ディープストップがリクリエーションダイビングに一般化するかどうかは、まだまだ多くの実験と効果の実証が必要になりそうです。
ダイブコンピューターの本質
ダイブコンピューターでのダイビングでは、浮上するにしたがって、ダイビング可能時間が延長されます。最大深度にすべての時間を滞在したとしてノーストップリミットを計算するダイブテーブルの拘束から逃れるダイブコンピューターはありがたい存在です。しかし、ダイビング可能時間が増すことは、人体はさらに窒素ガスを吸収することになり、減圧症のリスクが増える可能性があります。ダイブコンピューターには、浮上によるダイビング可能時間の延長という利点の反面、浮上によるリスクも秘めているということを忘れないことが重要です。
浮上することによって、ダイビング可能時間が追加されることの正体は、荷物の処理スピードの違う倉庫が並んでいて、作業が遅くてスペースに空きが残っている倉庫を探し、荷物をできるだけ多く詰め込もうとするようなものです。コンピューターは荷物を上手に倉庫へ詰め込む方法教えてくれますが、見方を変えれば、窒素ガスを限界ギリギリまで、体に溜めこむことを教えてくれるのだともいえます。余分に詰め込む組織は吸収の遅い組織であり、窒素ガスを排出するのも遅いのですから、繰り返しダイビングをするときの、水面休息時間にも影響を与えます。それをどのようにダイバー自身が自覚し、限界までの余裕を保って浮上するかを考える必要がありそうです。
10.まとめ
ダイバーは、自ら体内に窒素ガスをため込むという宿命を負っています。その窒素ガスの働きに影響を与えるダイバー自身の個人的、生理的な条件は、ダイブコンピューターには計算できません。どこまで窒素ガスをため込んで良いのかは、ダイバー自身が判断しなくてはいけないのです。そして浮上方法もダイバー自身が理解し実践する必要が生じています。もしかするとリクリエーションダイビングにも、ディープストップが標準的な浮上手順になる時代が来るのかもしれません。
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