2026年4月2日、日本が世界に誇るテクニカルダイバー・田原浩一氏を講師に迎え、会場とオンラインのハイブリッド形式でセミナーが開催されました。

40年のキャリア、1万本を超える潜水経験、そして数々の極限状況を潜り抜けてきた田原氏の言葉は、私たちが抱く「安全」という概念を根底から揺さぶるものでした。

1. ダイビングの「前提」を定義し直す

ダイビングは「誰でも簡単にできる安全なレジャー」と謳われがちですが、田原氏は「ダイビングは危険な活動である」という前提に立つべきだと主張します。

非日常環境の自覚: 水中は本来、人間が生きていけない場所である。

依存の不確実性: 「いつか壊れる機材」を使い、「必ずミスをする人間」が操作している。

マーフィーの法則: 「起こりうることは、いつか必ず起こる」。

この「生きていけない環境で、壊れるかもしれない道具を使い、ミスをする人間が操作する」という認識こそが、リスクマネージメントの出発点となります。

2. 熟練へのブレイクスルー:2つの教育モデル

なぜ講習を終えても不安が残るのか。田原氏は脳科学的視点から、教育の「2つの段階」を解説しました。

「How-to」から「本質」へ

技術の習得には、初歩的な「How-to」の段階(20時間の法則)と、本質を理解し直感で動ける「プロフェッショナル」の段階(1万時間の法則)の2つがあります。

特徴

20時間の法則(初級/講習)

10,000時間の法則(熟練/プロ)
学習対象

How-to(やり方)の習得

本質の理解・応用・直感
使用する脳

小脳(動作の記憶)前頭葉

前頭葉・基底核(判断と直感)
思考の性質

定型・単純化されたルール

リアルタイムの状況判断と不確実性への対応・柔軟性

脳の使い方の違い: 単純な動作を覚える「小脳」主体の学習から、状況判断や直感をつかさどる「前頭葉」などを使う段階へ移行するには、一つの壁(ブレイクスルー)を越える必要があります。

「マクドナルドの調理システム(マニュアル)」と「寿司屋の板前(修行)」の違いです。マニュアルの延長線上に熟練はありません。

どこかで『クリティカルシンキング(批判的思考)』を持ち、教わったことを疑い、自分なりに咀嚼するブレイクスルーが必要です。

How-toを繰り返すだけでは「熟練」の領域には到達しません。使う脳の領域が異なるため、どこかで「ブレイクスルー」が必要になります。

そのために必要なのが、「オープンマインド(他者の意見を聞く)」「クリティカルシンキング(既存の教えを疑い、本質を考える)」「フレキシビリティ(柔軟性)」の3要素です。

3. クリティカルシンキング:現場で通用する技術とは

講習で習う「標準手順」が、現場ではリスクを増大させることがあります。田原氏は、自身の経験から得た実戦的な視点を紐解いてみせました。

レギュレーターリカバリー

講習では「連続排気」を教わりますが、中層を泳いでいる際や深度限界(MOD)付近で息を吐き続ければ、浮力を失い急沈降する危険があります。状況に応じ「息を止める」判断も不可欠です。

エア切れ対応

パニックになったダイバーは合図など送らず、いきなりレギュレーターを「強奪」しに来ます。奪われた瞬間に自分がバックアップを咥え、相手には呼吸しやすい角度(真上ではなく前方から)で差し出すといった、一歩先の備えが命を救います。奪われても自分がバックアップで即座に呼吸できる体制を整えておくべきです。

機材チェック

陸上だけでなく、必ず水中で「実際に機能しているか(漏れがないか)」を確認する視点が不可欠です。

11個目の間違い探し

「間違いが10個ある」と言われて10個見つけて満足するのではなく、「まだあるのではないか?」と探し続ける姿勢。この「11個目を探すアウェアネス(状況把握)」が生存率を高めます。

4. 装備による「自己完結能力」の最大化

田原氏が推奨する装備は、バディに依存せず自らの問題を解決する「ソロ・ダイビング・システム」の思想に基づいています。実際の器材を用いて解説しました。

実践的な装備構成

  1. ロングホース・システム(1.5m)
  2. メインのレギュレーターに長いホースを使用し、バックアップはネックレスで首に固定します。
    利点:エアを分ける際、相手と距離を保てるため、パニックに巻き込まれにくい。水面での浮力確保時もうつ伏せのまま呼吸が可能。
    即時性:マウスピースが吹き飛ばされても、首元にあるバックアップを即座に咥えられます。

  3. ポケットパンツの活用
  4. BCのポケットではなく、手の届きやすい太もも付近にポケットを増設します。
    予備マスク:蹴られて紛失した際、「かわいそうな自分(トラブルに陥った自分)」にならないための必須装備。
    ラインカッター・水中ノート: 絡まりへの対応や、水中での確実なコミュニケーション用。

  5. ガスマネージメント
  6. ポニーボトル: 独立した呼吸源を持つことで、物理的なバックアップを確保する。
    「残圧50で帰る」という成り行き任せではなく、自分の呼吸率(SACレート)を把握し、トラブルが起きても2人が安全に浮上できるだけのガスを計算して持つ「ガスルール(行き1/3・帰り1/3・予備1/3)」の徹底。

5. チームと体制のリスクマネージメント

個人の技術だけでなく、チームとしての「体制」が安全の質を決定します。

バディの掛け算

田原氏はバディシステムを「算数」で例えました。
バディA ×バディB = チーム力
• 1×1=1(一人前同士でチーム成立)
• 1×0.5=0.5(初心者が入ると、一人で潜るより危険になる)
初心者を連れる場合、ベテラン側は「2(二人分以上の能力)」を発揮して初めてチームとして成立します。お互いに「何かあったら相手のガスをあてにする」のではなく、まずは自立したダイバーであることが大前提となります。

陸(水面)との連携

• 特定サイン付きフロート: 緊急事態を知らせるリボンや、水中のトラブルを船上に伝えるV字マーカーの使用。
• ツイン・イン・ツー・アウト: 消防のシステムに倣い、水中の2名に対し、同装備の救助要員2名が船上で待機する理想的な体制。

6. 極限の事例:サイパン水深52mでの救助

田原氏が遭遇した酸素中毒患者の救助事例から訓練の重要さを語りました。
水深52mで痙攣を起こしたダイバーに対し、田原氏は即座にホールドし、水深32mで「7分30秒」もの間、浮上を待機しました。これは「痙攣中に浮上させれば肺破裂を招く」という正確な知識と、事前の徹底したシミュレーション、そして「かわいそうな自分(トラブルに陥った自分)」を想定した訓練があったからこそできた判断です。
浮上後も、純酸素を自ら吸ってから吹き込む人工呼吸を行い、見事に蘇生へと繋げました。

7. 結論:真のダイバーとしてのあり方

リスクマネージメントにおいて、最も危険なのは「俺様(過信)」と「言い訳」です。

「準備までは、これでもかというほどの小心者(ビビリ)であれ。しかし、一度海に入ったならば、準備に裏打ちされた自信を持って大胆に振る舞え。」
この二面性を持つこと。そして常に想像力を働かせ、自然への畏怖を忘れないこと。これこそが、ダイビングを最高に安全で、最高に楽しい活動へと変える鍵となります。定型的な教えを越えて、状況に合わせて自分自身で考え、アレンジしていく姿勢が、活動効率を高め、結果としてリスクを低くすることに繋がります。

田原氏のメッセージは一貫して「想像力を持つこと」でした。 何かに集中(カメラ等)しすぎると周りが見えなくなる「アウェアネス(状況把握)」の欠如が最大の敵です。
「今まで大丈夫だったから、次も大丈夫」という根拠のない自信を捨て、常に11個目の間違い(見落とし)を探し続ける姿勢こそが、長く楽しく潜り続けるための唯一の道であると締めくくられました。

■ まとめ:安全を「自分事」として捉えるために

今回のセミナーは、従来の「教わった通りに潜る」という受動的な姿勢から脱却し、「なぜそうするのか」「何が起きたらどう対処するか」という本質を一人ひとりが問い直すための、極めて貴重な機会となりました。

田原氏が提唱した「リスクマネージメント」とは、単なる事故回避のノウハウではありません。それは、自然という圧倒的な存在に対し、「常に最悪の事態を想像し、万全の備えをした上で、そのプロセスを楽しむ」というプロフェッショナルな美学そのものでした。

会場やオンラインで寄せられた数多くの質問からは、多くのダイバーが「現状の教育システムやバディシステムに潜在的な不安を感じ、より本質的な知識を渇望している」という強い熱量が伝わってきました。
今回の学びを単なる知識として終わらせるのではなく、明日からのダイビングにおいて、セミナーで語られた内容を意識し実践していくことが求められます。

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